寺田屋事件というと幕末の大きな事件ですよね。
坂本龍馬の物語では必ず出てくるほどの有名な事件です。
そんな大変有名な寺田屋事件について、ご紹介していきます!
寺田屋事件(寺田屋騒動)とは
1862年5月21日(旧暦文久2年4月23日)、京都伏見の旅館「寺田屋」で起きた事件です。
ひと言で言えば、薩摩藩の内紛なんです。
当時の薩摩藩の実質的な指導者は藩主である島津茂久の父である、島津久光。
島津久光は公武合体を狙っていました。
公武合体とは、朝廷と幕府の力を合わせて、幕藩体制を立て直していこう、という考え方です。
しかし、薩摩藩士の中には尊王攘夷の考えを持つ過激派もいました。
天皇中心の政治に戻し、外国を退けようという考え方ですね。
この両者の考えが合うわけはなく、尊王攘夷派は既成事実を作り、尊王攘夷に持っていきたいと計画しました。
尊王攘夷の過激派にはこのような人物たちがいたといわれています。
- 有馬新七(薩摩藩)
- 柴山愛次郎(薩摩藩)
- 橋口壮介(薩摩藩)
- 真木和泉(久留米藩)
- 田中河内介(明治天皇の教育係)
寺田屋は薩摩藩がよく使っていた宿であり、薩摩藩士が計画を練るにはいい場所だったようです。
尊王攘夷の過激派が蜂起を考えている、ということを知った島津久光はなんとか説得を試みるも、ことごとく失敗。
5月21日にも説得の使者を送っていましたが、交渉が決裂。
どうも過激派が藩邸に行くことを拒んだようです。
その後、島津久光の使者側の道島五郎兵衛が、過激派の田中謙助に斬りかかったことで、薩摩藩士の同士討ちが発生しました。
乱戦の中で亡くなった人物がこちら。
尊王攘夷過激派
- 柴山愛次郎
- 有馬新七
- 橋口壮介
- 弟子丸龍助
- 橋口伝蔵
- 西田直五郎
(計6名)
説得側
- 道島五郎兵衛
(1名)
騒動は寺田屋の1階で起きました。
このあと、2階にいた過激派の大半は投降、一部は逃亡して寺田屋事件は終わりました。
坂本龍馬の寺田屋事件(寺田屋遭難)
寺田屋事件は薩摩藩士同士の争い以外にもあります。
寺田屋遭難とも呼ばれています。
こちらは坂本龍馬がかかわった事件です。
1866年3月9日(旧暦慶応2年1月23日)、坂本龍馬と三吉慎蔵は寺田屋に宿泊していました。
そんなとき伏見奉行の捕り方(罪人を捕らえる役人)が寺田屋を包囲。
寺田屋に踏み込んで坂本龍馬の捕縛を狙いました。
しかし、坂本龍馬と三吉慎蔵の2名は裏口から逃亡。
薩摩藩に救援を頼み、窮地を脱しました。
その後、奉行所から薩摩藩に、引き渡しの要求があったものの、薩摩藩はこれを拒否しています。
その後、坂本龍馬は鹿児島に渡り潜伏することになりました。
寺田屋の場所
寺田屋は現在もあります。
住所 京都府京都市伏見区南浜町263
観光地となっていて、料金を支払えば観覧も可能です。
ただ、この寺田屋は再建されたもの。
弾痕や刀傷なども再現されていますが、あくまでレプリカと言えます。
もともとの寺田屋は1868年の鳥羽・伏見の戦いで焼失。
当時の建物があった西隣に建てられたものが、今の寺田屋とのこと。
登記は1905年にされているようです。
アクセス
- 近鉄京都線 桃山御陵前 徒歩10分
- 市バス特81系統 京橋バス停 徒歩1分
池田屋事件とは
寺田屋事件とよく混同されることがあるのが「池田屋事件」です。
1864年7月8日(旧暦元治元年6月5日)に、旅館の池田屋には長州藩や土佐藩の尊王攘夷派志士が集まっていました。
そこを新選組が急襲。
20名以上がいる池田屋に、近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4人が踏み込んで乱戦に。
新選組は9名を討ち、4名を捕縛するという戦果を挙げています。
翌朝、市中でも捜査が行われ、20名以上が捕縛され、11名の尊王攘夷派が討ち取られています。
寺田屋事件は2つあってややこしい!
寺田屋事件は2つあるんですね。これがややこしい!
混乱のもとです。
なので2つをしっかり分けるところから始めるのがおすすめです。
- 薩摩藩内の粛清
- 坂本龍馬襲撃
この2種類に分ければ理解しやすいですし、ちょっとした会話のときに自慢もできるかも!
ぜひぜひ簡単に理解して、日々の会話に活かしてください!